2012年10月20日土曜日

Lee Roy Abernathy

1913年生。1993年没。ジョージア州バートウ出身。

音楽好きの両親はカルテットでの歌唱とゴスペルを子供達に教えた。5歳の頃には父がベースパートを務めたAtco Quartetに参加するようになる。コカ・コーラの木箱の上に乗って歌う彼の歌唱能力は当時から特に優れたものだった。
20年代を通じて家族は度々移住を繰り返したが、Cantonで紡績の仕事を得てからはそこに定住するようになった。

14歳の頃にはピアノの演奏に熟達していた彼は結婚のためAtco Quartetを脱退した姉に代わりピアノパートを担当するようになる。J. M. Hensonらの元でシェイプ・ノートについて学び、 その後アトランタ音楽院に進学する。

大恐慌の時代を経てModern Mountaineersを結成した彼はWSB radioでのパフォーマンスに加えBluebird Recordsに録音を残す。1936年に作曲した"Good Times Are Coming Soon"はフランクリン・ローズヴェルト大統領再選のキャンペーンソングとなった。

1943年には初めてゴスペルのピアノ演奏譜を出版。ピアノの通信教育サービスなどの事業も開始した。
1947年にはHomeland Harmony Quartetのピアニストを務めるようになる。翌年録音した"Everybody's Gonna Have a Wonderful Time Up There."はヒットを収めるが、教会の関係者には非難された。後に同曲は"Gospel Boogie,"とタイトルが変更され、Pat Boone, Johnny Mathis, Johnny Cashら多くのアーティストによってカバーされた。

1949年、Shorty Bradfordとthe Happy Twoを結成し全国をツアーした。同グループは大変な人気を博し、アトランタのWAGA-TVなどを含めテレビへの出演、コマーシャル制作など様々な活動を行った。

1958年にはジョージア州知事選に出馬、当選は果たせなかったが多くの衆目を集めた。
1973年、the Gospel Music Hall of Fameに選出される。


Harry Reser

1896年生。1965年没。オハイオ州ピクア出身。

2歳の頃両親とオハイオ州デイトンに移り住む。この頃彼が既に非常に優れた音感を持っていることが分かり、両親は未だ幼かったHarryに特注のギターを与える。
8歳の頃にはステージで演奏するようになり、この頃ピアノと音楽理論の学習を始める。9歳の頃からはLuis HeinとAlbert Fischerの元でピアノに加えバイオリンとチェロの指導を受けるようになる。14歳になり、デイトンのSteele High Schoolに進学した彼は音楽を生涯の仕事として心に決めるようになる。

20歳を過ぎた頃ダンスバンドでのバンジョーの役割に目をつけバンジョーの演奏を始める。1920年にはPaul Gossの率いるダンスバンドで演奏した。この頃よりバンジョーでの演奏機会が多くなったが、ニューヨーク州バッファローに活動の拠点を移してからは競馬場での第一バイオリン奏者として生活し、その傍らバンジョーの演奏を続けた。

20年の年末いよいよニューヨーク市に活動の拠点を移す。Ben Selvin, Bennie Krueger, Sam Lanin, Nathan Glantz, Mike Markelらのバンドで演奏するようになる。レコーディングも行うようになった彼は1922年、自身のバンドを結成する。すぐにレコードレーベル、Okehとの契約を結びOkeh Syncopatorsとして活動するようになるが、Paul Whitemanからの依頼を受けMike Pingitorに代わりWhiteman楽団の英国ツアーに参加する。

1925年からはNBCの主宰したClicquot Club Eskimo Orchestraのリーダーを務めその名を広く知られるようになる。毎週の演奏は1935年まで継続した。同時期、ボーカルにTom Stacksを擁したHarry Reser and His Six Jumping Jacksのリーダーも務め、 Spike Jones and His City Slickersのようなコメディ・バンドに先鞭をつけた。


2012年10月16日火曜日

Ray Perry

1915年生。1950年没。

音楽一家に生まれた彼は間もなくバイオリンを演奏するようになる。兄弟のJoeとBayはそれぞれバリトン歌手、ドラマーになった。彼がバイオリンを弾きながら歌うのを見たSlam Stewartはウッドベースで同様の奏法を行うようになる。Perry自身はバイオリンよりアルト・サックスを演奏することが多かった。

Dean Earl (1935), Clarence Carter (1937–39), Blanche Calloway (1940), Lionel Hampton (1940–43)ら著名な演奏家らとセッションし日銭を稼いでいた彼の音楽キャリアは決して長くなかったがその間に多くのジャズミュージシャンと共演した。(括弧内は共演した時期)
共演したアーティストにShadow WilsonIllinois Jacquet (1946–47, 1950)、 Vernon AlleyJ. C. Heard (1946)、 Joe NewmanFred BeckettSabby Lewis (1948)、 Sir Charles ThompsonIrving Ashbyなど。

健康を崩し演奏を退くまで彼のキャリアは大変順調なものでJumpin' Jacquet50 Sublimes Chanteurs de Jazzの二枚のアルバムは今でも人気がある。



2012年10月14日日曜日

Harlan Leonard

1905年生。1983年没。ミズーリ州カンザスシティ出身。

クラリネット奏者として17歳の頃にプロとしての活動を始め、23年にはBenny Moten楽団に参加する。 リードセクションのリーダーを31年まで務める。
1931年、Thamon HayesとKansas City Skyrocketsを結成する。メンバーはトランペットにEd Lewis、トロンボーンにVic Dickenson、ピアニストにJesse Stoneなど。シカゴでアメリカ音楽家組合と揉め後に解散した。

その後まだ若かったMyra TaylorをフィーチャーしHarlan Leonard and his Rocketsを結成する。Charlie Parkerもこのバンドで5週間の間演奏したが、バンドのルールに従わないことからLeonardによって解雇された。同バンドの演奏はスウィングとバップを橋渡すものとして考えられている。バンドは二次世界大戦中に解散した。









Fred Beckett

1917年生。1946年没。ミシシッピ州ネラートン出身。

高校生の時、ホルンの演奏を始める。プロとして30年代にカンザスで活動を始め、その後セントルイスにてEddie Johnson's Crackerjacksに参加するようになる。続く数年にDuke Wright, Tommy Douglas, Buster Smith, Andy Kirkらと共演した。Prince Stewart
のテリトリーバンド、Nat Towlesらとも共演し、30年代末にはHarlan Leonardと演奏した。

40年代にはDinah Washingtonの伴奏など含めLionel Hamptonと多く共演した。第二次大戦中に患った結核によって1946年死去。

2012年10月13日土曜日

Bradly Kincaid

1895年生。1989年没。ケンタッキー州ギャラード郡出身。

出身はケンタッキー州だったがミュージシャンとしては北部州で活躍した。1926年、イリノイ州シカゴのラジオ局WLS-AMが放送したNational Barn Danceに出演した彼はその後ラジオのパフォーマーとしても知られるようになる。
フォーク/カントリー曲の作曲家としても才能に恵まれた彼が1928年に出版した楽曲集My Favorite Mountain Balladsは10万部を超えるベストセラーとなった。
Gennett Recordsに録音を残している。

1935年、マサチューセッツ州ボストンのWBZ-AMで働いていた彼は 当時22歳だったMarshall Jonesに"Grandpa" Jonesとニックネームを付けた。 これはJonesが早朝の放送のためスタジオ入りする時いつも不機嫌にしていたために付けられたあだ名だったが後にはあだ名で広く知られるようになった。

1945年にテネシー州ナッシュビルに越した彼はGrand Ole Opry(現在でも続いているカントリー音楽のライブ放送番組でアメリカで最も長い歴史を持つ番組のひとつでもある)のメンバーになる。
1971年、Nashville Songwriters Hall of Fameに加盟した。


2012年10月12日金曜日

Slam Stewart

1914年生。1987年没。ニュージャージー州エングルウッド出身。

ボストン音楽院に学ぶ。この頃サクソフォン奏者として知られるRay Perryがバイオリンの演奏に合わせ歌うのを目にしウッドベースに合わせオクターブ上の音で歌うスタイルが出来上がった。彼自身20歳の頃ウッドベースに転向する以前はバイオリン奏者として活動していた。ジャズ演奏の際のウッドベースのアルコ(弓弾き)がトレードマーク。

1937年、Slim GaillardSlim and Slamを結成する。 Floy Floyと共演した"Flat Foot Floogie"がヒットする。
1940年代を通じてLester Young, Fats Waller, Coleman Hawkins, Erroll Garner, Art Tatum, Johnny Guarnieri, Red Norvo, Don Byas, the Benny Goodman Sextet, Beryl Bookerとのセッションで活躍した。
中でもCharlie Parkerも参加した45年のDizzy Gillespieとのセッションがとりわけ良く知られており、"Groovin' High"や"Dizzy Atmosphere."などは現在でもビバップのクラシック曲として扱われる。

その後はベース演奏の傍らニューヨーク州立大学などで教鞭を執った。


2012年10月11日木曜日

Paul Specht

1895年生。1954年没。ペンシルバニア州シンキングスプリング出身。

バイオリン、オルガン奏者の父Charles G. Spechtに教えられ、自身もバイオリン奏者の道へ進む。同州フィラデルフィアの音楽学校に学んだ後、1916年に初めて自身のバンドを結成する。一次世界大戦中にはアメリカ西部をツアーして廻った。

1922年にコロンビアと契約。大人数のダンスバンドでの演奏に加え少人数編成のジャズバンドThe Georgiansでも活動した。現在コレクター達が通称するところの「フラッグ・レーベル」にいくつか録音を残している。

1922年以降には数度に渡ってイギリスツアーを行った。SpechtのバンドはRCA社の放送で初めて演奏し、またトーキーの時代の始まり、最初に映画吹き込みを行ったバンドでもあった。フーバー大統領就任の際には就任演説での演奏依頼を受けた。
30年代、40年代を通じて自身の持病により演奏を続けられなくなるまでバンドを率いた。晩年はテレビやラジオ向けのアレンジメントを行っていた。

彼のバンドに参加した著名な演奏家にHank D'Amico, Russ Morgan, Sylvester Ahola, Arthur Schutt, Charlie Spivak, Joe Tarto, Art Christmas, Chauncey Morehouseらがいる。

2012年10月5日金曜日

Chauncey Morehouse

1902年生。1980年没。ニューヨーク州ナイアガラフォールズ出身。

ペンシルバニア州チェンバーズバーグで育つ。幼い頃からドラムを演奏する。ピアノ、バンジョーも演奏した。高校生の頃、Versatile Fiveというバンドを結成する。
1922年から1924年にかけてPaul Spechtのバンドに所属し、23年にはヨーロッパツアーも行った。同じくSpechtによる少人数編成のバンド、The Georgiansでも演奏した。

24年から27年にかけてはJean Goldkette、同じく27年にはAdrian Rollini、28年から29年にはDon Voorheesの楽団に所属した。その他にもFrankie Trumbauer, Bix Beiderbecke, Red Nichols, The Dorsey Brothers, Joe Venutiらとレコーディングを行っている。 

29年からはニューヨーク市を中心にスタジオミュージシャンとして活動を始めラジオやテレビ放送の為に多く演奏した。70年代までスタジオミュージシャンとして現役で活動し、晩年はジャズの演奏を再開し、カーネギーホールでのBix Beiderbeckeのトリビュートコンサートなどフェスティバルを中心に参加した。

Leedy Drum社によるN'Goma drumsは彼の考案したものとして知られる。



2012年10月2日火曜日

Roger Wolfe Kahn

1907年生。1962年没。ニュージャージー州モリスタウン出身。

裕福なドイツ系ユダヤ人の家庭に生まれる。彼の両親はAdelaide "Addie" (Wolff)とOtto Hermann KahnでOttoは芸術家のパトロンとしても有名だった。OttoとRogerは始めて父子で米TIME紙の表紙を飾ったことで知られている。Ottoは1925年の11月、Rogerは27年の9月当時19歳の頃、それぞれ表紙に写真が掲載された。

Rogerは23年、16歳の頃自身のオーケストラを結成するまでに18の楽器の演奏を習得していたと言われている。1925年にはアメリカの発明家Lee De Forestの製作したトーキーに出演した。
Rogerは自身のバンドに当時のトップミュージシャン(Joe Venuti, Eddie Lang, Artie Shaw, Jack Teagarden, Red Nichols, Gene Krupaら)を雇い演奏させた。

彼の録音は25年から29年のものがVictor、29年から30年のものがBrunswick、1932年のものがColumbiaに残されている。
バンドの演奏がうまくいった時に床に見を投げ出し足をバタバタとさせるのが彼の癖だった。 しかし30年台半ばにはバンドの運営に興味を失い、自身のバンドを放棄する。その後は航空機の操縦に専心し41年には正式にGrumman Aircraft Engineering Corporationのテストパイロットとなった。
1931年にはミュージカル・コメディ女優Hannah Williamsと結婚しNew York紙の第一面を飾った。挙式は一族がロングアイランドに持つOheka Castleで行われた。しかし二年後には離婚紙再び第一面を飾ることとなった。妻Williamsは離婚の数週間後ボクシングチャンピオンのJack Dempseyと結婚し、Rogerは離婚の二日後、メイン州の政治家の娘と再婚した。

彼の曲でよく知られたものに"Hot Hot Hottentot"、"One Night In The Jungle"、"Anything You Say"、"Crazy Rhythm" (1964年、ウディ・アレンの映画Bullets Over Broadwayに使用されている。)、"Imagination"、"She's a Great Great Girl"などがある。

2012年10月1日月曜日

Vic Berton

1898年生。1951年没。

7歳の頃にはミルウォーキーのピットオーケストラで演奏を始め、16歳のにはミルウォーキー及びシカゴ交響楽団で演奏するようになる。第一次世界大戦中にはJohn Philip Sousaの海軍バンドに参加しドラムを演奏した。

戦後はシカゴへ戻り当時周辺のトップバンドと共演する。1922年Art Kassellと作曲した"Sobbin' Blues"は20年代のホット・バンドのスタンダードとなった。24年にはBix Beiderbeckeと親交を深め、当時Bixの在籍していたバンドthe Wolverinesにドラムで共演した。

その後彼はニューヨークへと活動の拠点を移し、Red Nichols and his Five Pennies, the Roger Wolfe Kahn Orchestra, Paul Whiteman Orchestra などで演奏した。20年代末には当時最高のドラマーのひとりとして評価されるようになった。彼自身のバンドは30年代半ばに"Taboo", "I've Been Waiting All Winter" "Dardanella"のヒットで成功を収めている。
1930年、Louis Armstrong、Frank Driggsらとマリファナを吸引していたことによって逮捕される。

30年代にはParamountのスタジオ・ミュージシャンとしても活躍し、40年代には再びオーケストラでの演奏を行った。

第二次世界大戦中には空軍のバンドに在籍し、除隊後は映画音楽のために多く演奏した。51年、ハリウッドにて肺がんにより死亡した。




Ernest Lawlers

1900年生。1961年没。アーカンソー州ヒューズ出身。Little Son Joeの芸名で知られる。

妻であったMemphis Minnieとの活動で広く知られる。結婚以前にもメンフィス周辺でブルースの演奏を行っていた。

35年にはRev. Robert Wilkinsと共演している。30年代末よりそれまで彼女の夫だったKansas Joe McCoyに代わりMemphis Minnieとの活動を始めた。

"Black Rat Swing"など自身の名義でのレコーディングも知られているが多くはサポートでの演奏である。Minnieとともに1950年代に音楽活動を引退した。