2012年10月20日土曜日

Lee Roy Abernathy

1913年生。1993年没。ジョージア州バートウ出身。

音楽好きの両親はカルテットでの歌唱とゴスペルを子供達に教えた。5歳の頃には父がベースパートを務めたAtco Quartetに参加するようになる。コカ・コーラの木箱の上に乗って歌う彼の歌唱能力は当時から特に優れたものだった。
20年代を通じて家族は度々移住を繰り返したが、Cantonで紡績の仕事を得てからはそこに定住するようになった。

14歳の頃にはピアノの演奏に熟達していた彼は結婚のためAtco Quartetを脱退した姉に代わりピアノパートを担当するようになる。J. M. Hensonらの元でシェイプ・ノートについて学び、 その後アトランタ音楽院に進学する。

大恐慌の時代を経てModern Mountaineersを結成した彼はWSB radioでのパフォーマンスに加えBluebird Recordsに録音を残す。1936年に作曲した"Good Times Are Coming Soon"はフランクリン・ローズヴェルト大統領再選のキャンペーンソングとなった。

1943年には初めてゴスペルのピアノ演奏譜を出版。ピアノの通信教育サービスなどの事業も開始した。
1947年にはHomeland Harmony Quartetのピアニストを務めるようになる。翌年録音した"Everybody's Gonna Have a Wonderful Time Up There."はヒットを収めるが、教会の関係者には非難された。後に同曲は"Gospel Boogie,"とタイトルが変更され、Pat Boone, Johnny Mathis, Johnny Cashら多くのアーティストによってカバーされた。

1949年、Shorty Bradfordとthe Happy Twoを結成し全国をツアーした。同グループは大変な人気を博し、アトランタのWAGA-TVなどを含めテレビへの出演、コマーシャル制作など様々な活動を行った。

1958年にはジョージア州知事選に出馬、当選は果たせなかったが多くの衆目を集めた。
1973年、the Gospel Music Hall of Fameに選出される。


Harry Reser

1896年生。1965年没。オハイオ州ピクア出身。

2歳の頃両親とオハイオ州デイトンに移り住む。この頃彼が既に非常に優れた音感を持っていることが分かり、両親は未だ幼かったHarryに特注のギターを与える。
8歳の頃にはステージで演奏するようになり、この頃ピアノと音楽理論の学習を始める。9歳の頃からはLuis HeinとAlbert Fischerの元でピアノに加えバイオリンとチェロの指導を受けるようになる。14歳になり、デイトンのSteele High Schoolに進学した彼は音楽を生涯の仕事として心に決めるようになる。

20歳を過ぎた頃ダンスバンドでのバンジョーの役割に目をつけバンジョーの演奏を始める。1920年にはPaul Gossの率いるダンスバンドで演奏した。この頃よりバンジョーでの演奏機会が多くなったが、ニューヨーク州バッファローに活動の拠点を移してからは競馬場での第一バイオリン奏者として生活し、その傍らバンジョーの演奏を続けた。

20年の年末いよいよニューヨーク市に活動の拠点を移す。Ben Selvin, Bennie Krueger, Sam Lanin, Nathan Glantz, Mike Markelらのバンドで演奏するようになる。レコーディングも行うようになった彼は1922年、自身のバンドを結成する。すぐにレコードレーベル、Okehとの契約を結びOkeh Syncopatorsとして活動するようになるが、Paul Whitemanからの依頼を受けMike Pingitorに代わりWhiteman楽団の英国ツアーに参加する。

1925年からはNBCの主宰したClicquot Club Eskimo Orchestraのリーダーを務めその名を広く知られるようになる。毎週の演奏は1935年まで継続した。同時期、ボーカルにTom Stacksを擁したHarry Reser and His Six Jumping Jacksのリーダーも務め、 Spike Jones and His City Slickersのようなコメディ・バンドに先鞭をつけた。


2012年10月16日火曜日

Ray Perry

1915年生。1950年没。

音楽一家に生まれた彼は間もなくバイオリンを演奏するようになる。兄弟のJoeとBayはそれぞれバリトン歌手、ドラマーになった。彼がバイオリンを弾きながら歌うのを見たSlam Stewartはウッドベースで同様の奏法を行うようになる。Perry自身はバイオリンよりアルト・サックスを演奏することが多かった。

Dean Earl (1935), Clarence Carter (1937–39), Blanche Calloway (1940), Lionel Hampton (1940–43)ら著名な演奏家らとセッションし日銭を稼いでいた彼の音楽キャリアは決して長くなかったがその間に多くのジャズミュージシャンと共演した。(括弧内は共演した時期)
共演したアーティストにShadow WilsonIllinois Jacquet (1946–47, 1950)、 Vernon AlleyJ. C. Heard (1946)、 Joe NewmanFred BeckettSabby Lewis (1948)、 Sir Charles ThompsonIrving Ashbyなど。

健康を崩し演奏を退くまで彼のキャリアは大変順調なものでJumpin' Jacquet50 Sublimes Chanteurs de Jazzの二枚のアルバムは今でも人気がある。



2012年10月14日日曜日

Harlan Leonard

1905年生。1983年没。ミズーリ州カンザスシティ出身。

クラリネット奏者として17歳の頃にプロとしての活動を始め、23年にはBenny Moten楽団に参加する。 リードセクションのリーダーを31年まで務める。
1931年、Thamon HayesとKansas City Skyrocketsを結成する。メンバーはトランペットにEd Lewis、トロンボーンにVic Dickenson、ピアニストにJesse Stoneなど。シカゴでアメリカ音楽家組合と揉め後に解散した。

その後まだ若かったMyra TaylorをフィーチャーしHarlan Leonard and his Rocketsを結成する。Charlie Parkerもこのバンドで5週間の間演奏したが、バンドのルールに従わないことからLeonardによって解雇された。同バンドの演奏はスウィングとバップを橋渡すものとして考えられている。バンドは二次世界大戦中に解散した。









Fred Beckett

1917年生。1946年没。ミシシッピ州ネラートン出身。

高校生の時、ホルンの演奏を始める。プロとして30年代にカンザスで活動を始め、その後セントルイスにてEddie Johnson's Crackerjacksに参加するようになる。続く数年にDuke Wright, Tommy Douglas, Buster Smith, Andy Kirkらと共演した。Prince Stewart
のテリトリーバンド、Nat Towlesらとも共演し、30年代末にはHarlan Leonardと演奏した。

40年代にはDinah Washingtonの伴奏など含めLionel Hamptonと多く共演した。第二次大戦中に患った結核によって1946年死去。

2012年10月13日土曜日

Bradly Kincaid

1895年生。1989年没。ケンタッキー州ギャラード郡出身。

出身はケンタッキー州だったがミュージシャンとしては北部州で活躍した。1926年、イリノイ州シカゴのラジオ局WLS-AMが放送したNational Barn Danceに出演した彼はその後ラジオのパフォーマーとしても知られるようになる。
フォーク/カントリー曲の作曲家としても才能に恵まれた彼が1928年に出版した楽曲集My Favorite Mountain Balladsは10万部を超えるベストセラーとなった。
Gennett Recordsに録音を残している。

1935年、マサチューセッツ州ボストンのWBZ-AMで働いていた彼は 当時22歳だったMarshall Jonesに"Grandpa" Jonesとニックネームを付けた。 これはJonesが早朝の放送のためスタジオ入りする時いつも不機嫌にしていたために付けられたあだ名だったが後にはあだ名で広く知られるようになった。

1945年にテネシー州ナッシュビルに越した彼はGrand Ole Opry(現在でも続いているカントリー音楽のライブ放送番組でアメリカで最も長い歴史を持つ番組のひとつでもある)のメンバーになる。
1971年、Nashville Songwriters Hall of Fameに加盟した。


2012年10月12日金曜日

Slam Stewart

1914年生。1987年没。ニュージャージー州エングルウッド出身。

ボストン音楽院に学ぶ。この頃サクソフォン奏者として知られるRay Perryがバイオリンの演奏に合わせ歌うのを目にしウッドベースに合わせオクターブ上の音で歌うスタイルが出来上がった。彼自身20歳の頃ウッドベースに転向する以前はバイオリン奏者として活動していた。ジャズ演奏の際のウッドベースのアルコ(弓弾き)がトレードマーク。

1937年、Slim GaillardSlim and Slamを結成する。 Floy Floyと共演した"Flat Foot Floogie"がヒットする。
1940年代を通じてLester Young, Fats Waller, Coleman Hawkins, Erroll Garner, Art Tatum, Johnny Guarnieri, Red Norvo, Don Byas, the Benny Goodman Sextet, Beryl Bookerとのセッションで活躍した。
中でもCharlie Parkerも参加した45年のDizzy Gillespieとのセッションがとりわけ良く知られており、"Groovin' High"や"Dizzy Atmosphere."などは現在でもビバップのクラシック曲として扱われる。

その後はベース演奏の傍らニューヨーク州立大学などで教鞭を執った。


2012年10月11日木曜日

Paul Specht

1895年生。1954年没。ペンシルバニア州シンキングスプリング出身。

バイオリン、オルガン奏者の父Charles G. Spechtに教えられ、自身もバイオリン奏者の道へ進む。同州フィラデルフィアの音楽学校に学んだ後、1916年に初めて自身のバンドを結成する。一次世界大戦中にはアメリカ西部をツアーして廻った。

1922年にコロンビアと契約。大人数のダンスバンドでの演奏に加え少人数編成のジャズバンドThe Georgiansでも活動した。現在コレクター達が通称するところの「フラッグ・レーベル」にいくつか録音を残している。

1922年以降には数度に渡ってイギリスツアーを行った。SpechtのバンドはRCA社の放送で初めて演奏し、またトーキーの時代の始まり、最初に映画吹き込みを行ったバンドでもあった。フーバー大統領就任の際には就任演説での演奏依頼を受けた。
30年代、40年代を通じて自身の持病により演奏を続けられなくなるまでバンドを率いた。晩年はテレビやラジオ向けのアレンジメントを行っていた。

彼のバンドに参加した著名な演奏家にHank D'Amico, Russ Morgan, Sylvester Ahola, Arthur Schutt, Charlie Spivak, Joe Tarto, Art Christmas, Chauncey Morehouseらがいる。

2012年10月5日金曜日

Chauncey Morehouse

1902年生。1980年没。ニューヨーク州ナイアガラフォールズ出身。

ペンシルバニア州チェンバーズバーグで育つ。幼い頃からドラムを演奏する。ピアノ、バンジョーも演奏した。高校生の頃、Versatile Fiveというバンドを結成する。
1922年から1924年にかけてPaul Spechtのバンドに所属し、23年にはヨーロッパツアーも行った。同じくSpechtによる少人数編成のバンド、The Georgiansでも演奏した。

24年から27年にかけてはJean Goldkette、同じく27年にはAdrian Rollini、28年から29年にはDon Voorheesの楽団に所属した。その他にもFrankie Trumbauer, Bix Beiderbecke, Red Nichols, The Dorsey Brothers, Joe Venutiらとレコーディングを行っている。 

29年からはニューヨーク市を中心にスタジオミュージシャンとして活動を始めラジオやテレビ放送の為に多く演奏した。70年代までスタジオミュージシャンとして現役で活動し、晩年はジャズの演奏を再開し、カーネギーホールでのBix Beiderbeckeのトリビュートコンサートなどフェスティバルを中心に参加した。

Leedy Drum社によるN'Goma drumsは彼の考案したものとして知られる。



2012年10月2日火曜日

Roger Wolfe Kahn

1907年生。1962年没。ニュージャージー州モリスタウン出身。

裕福なドイツ系ユダヤ人の家庭に生まれる。彼の両親はAdelaide "Addie" (Wolff)とOtto Hermann KahnでOttoは芸術家のパトロンとしても有名だった。OttoとRogerは始めて父子で米TIME紙の表紙を飾ったことで知られている。Ottoは1925年の11月、Rogerは27年の9月当時19歳の頃、それぞれ表紙に写真が掲載された。

Rogerは23年、16歳の頃自身のオーケストラを結成するまでに18の楽器の演奏を習得していたと言われている。1925年にはアメリカの発明家Lee De Forestの製作したトーキーに出演した。
Rogerは自身のバンドに当時のトップミュージシャン(Joe Venuti, Eddie Lang, Artie Shaw, Jack Teagarden, Red Nichols, Gene Krupaら)を雇い演奏させた。

彼の録音は25年から29年のものがVictor、29年から30年のものがBrunswick、1932年のものがColumbiaに残されている。
バンドの演奏がうまくいった時に床に見を投げ出し足をバタバタとさせるのが彼の癖だった。 しかし30年台半ばにはバンドの運営に興味を失い、自身のバンドを放棄する。その後は航空機の操縦に専心し41年には正式にGrumman Aircraft Engineering Corporationのテストパイロットとなった。
1931年にはミュージカル・コメディ女優Hannah Williamsと結婚しNew York紙の第一面を飾った。挙式は一族がロングアイランドに持つOheka Castleで行われた。しかし二年後には離婚紙再び第一面を飾ることとなった。妻Williamsは離婚の数週間後ボクシングチャンピオンのJack Dempseyと結婚し、Rogerは離婚の二日後、メイン州の政治家の娘と再婚した。

彼の曲でよく知られたものに"Hot Hot Hottentot"、"One Night In The Jungle"、"Anything You Say"、"Crazy Rhythm" (1964年、ウディ・アレンの映画Bullets Over Broadwayに使用されている。)、"Imagination"、"She's a Great Great Girl"などがある。

2012年10月1日月曜日

Vic Berton

1898年生。1951年没。

7歳の頃にはミルウォーキーのピットオーケストラで演奏を始め、16歳のにはミルウォーキー及びシカゴ交響楽団で演奏するようになる。第一次世界大戦中にはJohn Philip Sousaの海軍バンドに参加しドラムを演奏した。

戦後はシカゴへ戻り当時周辺のトップバンドと共演する。1922年Art Kassellと作曲した"Sobbin' Blues"は20年代のホット・バンドのスタンダードとなった。24年にはBix Beiderbeckeと親交を深め、当時Bixの在籍していたバンドthe Wolverinesにドラムで共演した。

その後彼はニューヨークへと活動の拠点を移し、Red Nichols and his Five Pennies, the Roger Wolfe Kahn Orchestra, Paul Whiteman Orchestra などで演奏した。20年代末には当時最高のドラマーのひとりとして評価されるようになった。彼自身のバンドは30年代半ばに"Taboo", "I've Been Waiting All Winter" "Dardanella"のヒットで成功を収めている。
1930年、Louis Armstrong、Frank Driggsらとマリファナを吸引していたことによって逮捕される。

30年代にはParamountのスタジオ・ミュージシャンとしても活躍し、40年代には再びオーケストラでの演奏を行った。

第二次世界大戦中には空軍のバンドに在籍し、除隊後は映画音楽のために多く演奏した。51年、ハリウッドにて肺がんにより死亡した。




Ernest Lawlers

1900年生。1961年没。アーカンソー州ヒューズ出身。Little Son Joeの芸名で知られる。

妻であったMemphis Minnieとの活動で広く知られる。結婚以前にもメンフィス周辺でブルースの演奏を行っていた。

35年にはRev. Robert Wilkinsと共演している。30年代末よりそれまで彼女の夫だったKansas Joe McCoyに代わりMemphis Minnieとの活動を始めた。

"Black Rat Swing"など自身の名義でのレコーディングも知られているが多くはサポートでの演奏である。Minnieとともに1950年代に音楽活動を引退した。

2012年9月28日金曜日

Memphis Minnie

1897年生。1973年没。ルイジアナ州アルジャース出身。生名Lizzie Douglas。

40年に渡り活動し、大恐慌の頃から第二次世界大戦期まで人気を博した。銀貨のブレスレットを身に付け、華美な性格だった。ブルースアーティストとしては早い時期にエレクトリックギターを使用し、Big Bill BroonzyTampa Redらと共に都会的なブルース演奏に先鞭をつけた。

いくつかの調査によると彼女は3度結婚し、その相手はいずれも才能あるブルース・ギタリストだった。3人の結婚相手はKansas Joe McCoyCasey Bill WeldonErnest "Little Son Joe" Lawlers.である。

幼い頃にバンジョーとギターの演奏を学んだ彼女は13歳の頃に家を出た。その年彼女はメンフィスやテネシーのナイトクラブや路上でLizzie "Kid" Douglasを名乗り演奏して暮らした。
翌年、彼女はRingling Brothersのサーカス団に加わる。1929年にはKansas Joe McCoyと結婚し、彼と共にファースト・レコーディングを行う。コロンビアのスカウトがメンフィスのビール通りのバーバーショップで彼女らの演奏を聴いたことがきっかけだった。レコーディングされた"Bumble Bee"はヒット曲となる。1930年代にはシカゴに移り演奏を続け、1940年代には自身のボードビル・カンパニーを立ち上げ活動を行った。"Nothing in Rambling," "In My Girlish Days," "Looking The World Over," "Me and My Chauffeur Blues"などよく知られている彼女の曲が制作され、最も精力的に活動が行われたのは1940年代初頭だった。40年代末からインディアナポリス、デトロイトと居を移し、50年代には再びシカゴへと戻ったが再び注目を集めることはなかった。

1929年に録音された彼女の"When the Levee Breaks"は1971年、Led Zeppelinによってカバーされている。また同曲は2001年にTerry Zwigoffによって制作された漫画原作の映画、Ghost Worldでも使用され、彼女自身についても映画中度々言及されている。 

 

2012年9月27日木曜日

Geeshie Wiley

アメリカの女性ブルースシンガー、ギタリスト。1930年代にわずか3枚のレコードを残した。写真など彼女の姿を知る資料は現存していない。

Ishman Braceyの証言によれば彼女はミシシッピ州ナチェスの出身であるという。また、1920年代、彼女がミシシッピ州ジャクソンのメディシン・ショウ(日本での蝦蟇の油売りのようなもの)に出演していた際にはPapa Charlie McCoyとの交際関係が語られている。いくつかの資料からMemphis Minnieと離婚した後のCasey Bill Weldonは彼女と婚姻関係にあったと考えられている。

1930年の3月、彼女は"Last Kind Word Blues"と"Skinny Leg Blues"パラマウントに吹き込んだ。Elvie Thomasが伴奏を務めている。Thomasもこの時"Motherless Child Blues"、"Over to My House"の録音を行った。Thomasの吹き込みでWylieはギターの伴奏、コーラスを務めている。1931年3月、二人は再び共に"Pick Poor Robin Clean" and "Eagles on a Half."を録音しこれが記録された最後のレコードとなった。

経歴や活動の詳細については知られていないが、ニックネームの"Geechie"及び"Geechee"はサウスキャロライナ、ジョージア沿岸部で一般的なあだ名だったことが知られている。

彼女の"Last Kind Word Blues" Terry Zwigoffによって1994年に撮影されたカートゥーン作家でSPレコードの蒐集家としても知られるロバート・クラムのドキュメンタリー映画、Crumbの中で使用されている。


2012年9月26日水曜日

Tiny Bradshaw

1907年生。1958年没。生名Cicero P. Bradshaw。

ウィルバーフォース大学で心理学の学位を取得し卒業、音楽で生計を立てるようになる。オハイオではHorace Hendersonの学内バンドでボーカルを執り、1932年には活動の場をニューヨークへ移す。同地ではMarion Hardy、後にSavoy Bearcatsとして知られるCharleston BearcatsMills Blue Rhythm Bandなどでドラムを演奏した他、Luis Russell のバンドでボーカルを務めた。

1934年、自身のバンドを結成。デッカに録音を残す。その後はレコーディングから遠ざかり、次の録音は10年後の1944年、Manor Recordsに残された。1944年の時点で彼らの演奏はリズム&ブルースにかなり接近したものとなっていた。1949年から1955年にかけてはKing Records の録音で当時拡大していたリズム&ブルースの市場で活躍した。

最も良く知られた彼の作品に1951年の"Train Kept A-Rollin"が挙げられる。リズム&ブルースとロックンロールの過度期に発表されたこの楽曲はその後1956年にJohnny Burnette、1965年にThe Yardbirds 、1974年にはAerosmithによってカバーされた。病状の悪化によって1958年King Recordsに残した"Bushes"、"Short Shorts"が彼の最後の録音となった。



2012年9月25日火曜日

Ink Spots

1930年代初頭インディアナポリスで結成。結成時のメンバーは以下の通り。
Orville "Hoppy" Jones(バス):チェロ担当
Ivory "Deek" Watson(テナー):テナーギター担当
Jerry Daniels(テナー):ギター/ウクレレ担当
Charlie Fuqua (バリトン):ギター担当
1931年頃、DanielsとFuquaはインディアナポリスで"Kyle and Charlie"というボーカルデュオを結成していた。同時期、オハイオ州シンシナティのラジオ局WLWに定期的に出演していたボーカルカルテット"The Four Riff Brothers"にJonesとWatsonは加入していた。1933年、同グループの解散に伴いWatson、Daniels、Fuquaはグループを結成。翌年Jonesも加わり4人編成となる。

1934年、Tiny Bradshawのサポートとしてアポロシアターに出演。バンドリーダーPaul Whiteman
の要請を受けグループ名を"The 4 Ink Spots"とする。同年Jack Hylton のオーケストラと英国ツアーを行い成功を収める。
初のレコーディングを1935年ビクターに残す。グループは急速に知名度を獲得していたもののレコーディングセールスは不調だった。1936年Danielsが脱退、同年Bill Kennyが加入しNBCのテレビ放送デモンストレーションに出演した。

1939年、デッカから発売されたJack Lawrence作曲の"If I Didn't Care"で初めてヒットを記録する。数ヶ月後発売された"Address Unknown"ではチャート一位を獲得した。
グループは1940年から1949年にかけて35の楽曲をチャートに記録し、46年に発売された"The Gypsy"では13週にわたりチャート首位を保持した。
40年代には"The Great American Broadcast"、"Pardon My Sarong"の二作品において映画出演を果たしている。


Marion Harris

1896年生。1944年没。インディアナ州出身。生名Mary Ellen Harrison。

1914年頃、シカゴのヴォードビル劇場、映画館で活動を始める。ダンサーのVernon Castleの紹介を受けニューヨークでの活動を始め、1915年、Irving BerlinのレビューStop! Look! Listen!に出演する。

1916年よりビクターでレコーディングを始める。"Everybody's Crazy 'bout the Doggone Blues, But I'm Happy", "After You've Gone", "A Good Man Is Hard to Find", "When I Hear that Jazz Band Play"などを録音した。"I Ain't Got Nobody"のヒットが有名。

1920年からはコロンビアに録音を残すようになる。ブルースやジャズ調の曲を多く録音した彼女は"The Queen of the Blues"と呼ばれることもあった。W.C.Handyは彼女について「彼女がブルースを上手に歌うものだからレコードを聴いている人たちは彼女のことを黒人だと思い込むこともあるんだ。」とコメントしている。

22年にブランズウィックに移った彼女はその後20年代を通じてブロードウェイに出演し続けた。31年から33年にかけてはThe Ipana TroubadorsRudy Vallee's The Fleischmann's Yeast HourなどNBCのラジオプログラムに出演した。

2012年9月4日火曜日

Gene Austin

1900年生。1972年没。テキサス州ゲインズビル出身。

彼の書いたスタンダード曲に"When My Sugar Walks Down the Street"、"The Lonesome Road"など。
生名はLemeul Eugene Lucasであるが義父の名を取りGene Austinを名乗るようになった。ルイジアナ州北東部のウェブスター郡で育った彼はピアノとギターの演奏を学ぶ。15歳の頃家を出、テキサス州、ヒューストンのボードビルに参加するようになる。同地でのボードビルは観客がステージに上がり歌を歌うことが許されていたが、客として舞台に上がった彼の歌唱は観客に絶賛され、すぐに雇用されるものとなった。

17歳の頃第一次世界大戦に従軍し、最初の駐屯地としてニューオーリンズに滞在するが、彼はその中でも特に治安の悪い地域で夜にピアノを演奏していた。
馬の扱いに長けていた彼は騎兵としてメキシコに配属され大いに戦績を残しその後フランスに配属される。

1919年アメリカに戻った彼はメリーランド州ボルティモアで生活するようになる。歯学を学ぶつもりであったがすぐに酒場でピアニスト及び歌手として活動するようになる。Roy Bergereとボードビルを結成し、"How Come You Do Me Like You Do."を作曲する。その後は後にClayton, Jackson and Durante というボードビルチームで知られることになる Lou Claytonの経営するクラブで演奏を続けた。

RCAVictorにより彼の人気曲であった"When My Sugar Walks Down the Street"が買い上げられ、その後10年間に、RCAの元で800万枚を超えるセールスを残す。とりわけよく知られた曲に"The Lonesome Road,"、"Riding Around in the Rain,"、"Ramona."などがある。

磁気録音の出現に際し、Rudy Vallee, Art Gillham, Nick Lucasらとともにクルーナー唱法の先駆けとなる。クルーナー歌手として多大な功績を残した彼は30年代以降にはハリウッドにてBelle of the Nineties (1934), Klondike Annie (1936) and My Little Chickadee (1940)に出演した。

2012年8月22日水曜日

Coon-Sanders Original Nighthawk Orchestra

1919年結成。
 クーンは1893年、ミネソタ州ロチェスター出身。サンダースは1896年カンザスに生まれた。サンダースは地元で野球の名手として知られていたが音楽に専念するため20年代初頭にスポーツを退く。

二人の結成したバンドは22年からWDAFによって全米放送されるようになる。演奏はカンザスのミュエルバッハホテルから中継された。放送が午後11時半か午前1時という深夜時間帯のものだったため彼らはナイト・ホークス・オーケストラを名乗るようになる。1924年にはファンクラブに37000人も参加するようになる。ファンは手紙や電報などでリクエストを伝えた。当時の様子はオリジナル楽曲の"Nighthawk Blues"の歌詞にも("Tune right in on the radio/Grab a telegram and say 'Hello'.")残されている。1924年、ジュール・スタインの設置したMusic Corporation of America と契約しシカゴへ活動の拠点を映す。 また、ウィリアム・ペイリーの企画によってニューヨークでの放送向け演奏も行った。

その後も順調に活動を行ったが1932年クーンの病死によって失速、サンダースは自身のバンドを組むなど活動を続けたが1965年にこの世を去った。

現在でも年に一度、彼らのファンによって会合/フェスティバルがウェストバージニア州で開催されている。



2012年7月28日土曜日

Carl Kress

1907年生。1965年没。ネバダ州リーノ出身。

ギタリスト。プロとしてのキャリアを1926年Paul Whiteman楽団でスタートする。スタジオ・ミュージシャンとして多くのミュージシャンと共演し、20年代にはBix Beiderbecke, Red Nichols, Eddie Lang, Miff Mole, Frankie Trumbauer, Tommy Dorsey, Adrian Rolliniらと共演する。30年代には同じくギタリストのDick McDonough
とデュオで多く演奏し、40年代にはMuggsy Spanier, Pee Wee Russell, Bobby Hackett, Pearl Baileyらと共演する。一時期にはLouis Armstrongの在籍したGordon Jenkins楽団でも演奏した。最晩年にはGeorge Barnesとのデュオで演奏することが多かった。

40年代にはColumbia Recordsのレコーディング・プロデューサーも務め46年The King Cole Trioの"The Christmas Song"などをプロデュースしている。
また彼はニューヨーク52番通りにあったOnyx Clubの共同経営人でもある。当時The Chesterfield Supper Club
いうラジオ・プログラムにも出演していたThe SatisfiersのボーカリストHelen Carrollと結婚し同番組に自身のオーケストラでも出演している。

2012年7月24日火曜日

George Formby

1904年生。1961年没。生名George 英ランカシャー州出身。生名Hoy Booth。

7人兄弟の長男として生まれる。父のJames Boothは著名なコメディアンだった。7歳の頃乗馬を始め10の頃にはプロの騎手としてレースに参加するようになる。

1921年、父の死後彼は騎手としての活動を辞め父の遺した舞台道具を使いショーのステージに立つようになる。24年にはダンサーだったBeryl Ingham と結婚しまたこの頃ウクレレを演奏するようになる。
舞台でバンジョーレレを演奏し洒落に満ちたコミックソングを歌った彼は注目を集めるようになる。Noel Gayの作曲した"Leaning on a Lamp Post"がとりわけ良く知られている。

彼の演奏した楽曲の多くは録音が残されているが、過激な詩の内容などから放送禁止処分を受けることもあった。(1937年発表"With my little stick of Blackpool Rock")
26年に録音を始めた彼は30年代に入ると商業的成功を収めるようになり、多数の映画に出演、1934年から1945年にかけてトップ・コメディアンとして大衆の人気を博した。全盛期の1939年にはあらゆるジャンルを通じて最も人気のあるフィルム・スターだった。


2012年7月23日月曜日

Orrin Tucker

1911年生。2011年没。ミズーリ州セントルイス出身。

若い頃からサックスの演奏を学んでいた彼は大学在学中に自身のバンドを結成する。シカゴから訪れていたスカウトに誘われニュー・オーリンズへ演奏旅行へ出向いた。彼はまた同地にてカンザス・シティでの演奏に招かれ、現地に留まり演奏するようになる。地元の劇場では手の込んだ舞台装置で名を知られるようになる。

バンドではボーカルも務めたがLouis Armstrongの薦めでBonnie Bakerを起用する。39年Columbia Recordsと契約したバンドは第一次世界大戦最時にAbe Olmanによって書かれた''Oh Johnny, Oh Johnny, Oh!''のカバーでヒットを掴み同曲はチャート最高位2位を記録した。後に彼のバンドに参加したボーカリストにHelen Lee、Scottee Marshがいる。

2012年7月22日日曜日

Nellie Lutcher

1912年生。2007年没。ルイジアナ州レイク・チャールズ出身。

15人兄弟の長女として生まれる。父はベース奏者、母は教会のオルガン奏者だった。ピアノレッスンを受けた彼女は父の組んだ家族楽団で演奏するようになる。ブルース・シンガーのMa Raineyが地元を訪れた際、当時12歳だった彼女は病欠したピアニストの代理を務め演奏した。

1933年にはSouthern Rhythm Boysに加入し全国をツアーしていた彼女だが、1935年にロサンゼルスを活動の拠点とする。この頃Earl HinesDuke EllingtonNat "King" Coleらの影響を受けスウィング・ピアノを演奏するようになる。Coleは彼女の友人でもあった。

1947年、まだ全米的な知名度は小さかった彼女はタレント・ショーに出演し、ラジオ放送でそれを聴いていたCapitol RecordsのスカウトだったDave Dexterの耳にとまる。Capitolと契約した彼女はヒット曲を次々に発表するようになる。

50年にはNat "King" Coleとのデュエットや英ラジオパーソナリティJack Jacksonのプロモーションによるイギリスツアーなどを行った。
 51年にCapitolとの契約が解消された彼女はその後もOkehDeccaLibertyなどのレコード・レーベルに録音を残した。

彼女の特徴な発音や歌唱法はNina Simoneなど後のシンガーに影響を与えた。


Cyril Stapleton

1914年生。1974年没。イギリス出身。

7歳の頃バイオリンの演奏を始め12歳の頃には地元のラジオ局で演奏するようになっていた。10代のころはBBCの放送ややサイレント映画の伴奏などを多く務めた。Trinity College of Musicに進学した彼はHenry Hall の率いたダンスバンドに参加するようになる。同バンドはいくつかの録音をEMIに残している。バンドを去った後彼は生地のノッティンガムに戻り自身のバンドを結成する。

30年代にはJack Payne Orchestraと南アフリカをツアーする。第二次世界大戦に従軍後、London Symphony Orchestra、the National Symphony Orchestra、the Philharmonia Orchestraなどに参加する。1947年には再びバンドを結成し、BBCで演奏するようになった。共演した歌手にDick JamesFrank Sinatraなど。
彼のバンド出身のミュージシャンにBert WeedonBill McGuffieTommy WhittleMatt Monroなどがいる。



2012年7月17日火曜日

Robert Nighthawk

1909年生。1967年没。アーカンソー州ヘレナ出身。本名Robert Lee McCollum。

若くして流しの演奏者になるため家を離れ、ミシシッピ州南部を放浪した後テネシー州メンフィスで活動するようになる。Memphis Jug Bandのような地元のバンド、ミュージシャンらと共演した。この頃Houston Stackhouse にスライド・ギターの演奏を学ぶ。

30年代半ばにはミズーリ州セントルイスに移った彼はHenry TownsendBig Joe WilliamsSonny Boy Williamsonらと共演する。37年にはビクターのスタジオに録音を残す。録音に参加しか他のミュージシャン達はシカゴ・ブルースの演奏者として活動するようになるが彼自身は放浪を続けた。

その後Robert Nighthawkを名乗るようになった彼はAristocratChess Records に録音を残す。Chess RecordsにはMuddy Watersが在籍し、2人の演奏スタイルは共通する点も多かったが彼は商業的な成功を収めることはできなかった。60年代に再評価され、ミシシッピ・ブルースに多く貢献した演奏者として知られている。


Jack Jackson

1906年生。1978年没。イングランド出身。

父もブラスバンドの演奏者であり指揮者だった彼は11歳になる頃コルネットを演奏するようになる。
サーカスやレビュー、ボールルームなどでコルネットを演奏するようになった彼は1927年、Jack Hylton のバンドに参加する。29年に同バンドを脱退後フリーランスとして活動するようになる。

31年、Jack Payne率いるBBCのダンス・オーケストラに参加する。 自身のバンドを結成するためPayneのバンドを33年に去る。ロンドンにあるDorchester Hotelと5年間の契約を結び演奏するようになる。出演の最後に演奏する曲はいつもDancing In The Darkだった。39年にはRadio Luxembourgで定期演奏するようになる。

戦後はバンド活動を退き専らラジオの司会者を務めるようになる。彼のスタイルは後に Kenny EverettNoel EdmondsなどのラジオDJに影響を与えた。 

2012年7月16日月曜日

Rose Murphy

 1913年生。1989年没。オハイオ州ジーニア出身。
多くの曲中で「チー・チー」と口ずさむことから“the chee chee girl”と渾名される。別称に'The Girl with the Pale Pink Voice'。

30年代カウント・ベイシー楽団のミュージカル演奏の幕間ピアニストとしてキャリアをスタートする。40年代にはアメリカ、イギリスの両国で人気を博すようになる。

優れたピアノの演奏技術に加え、高域で歌う歌唱スタイルやスキャットなどに特徴を持つ。50年代から80年代にかけては Cookery、Michael’s Pub、Upstairs At the Downstairsなどニューヨークのトップクラブで多く演奏した。伴奏者にSlam Stewart やMorris Edwardsを従えることが多かった。

2012年7月15日日曜日

Jean Goldkette

1893年生。1962年没。フランス出身。

少年時代をギリシャやロシアで過ごし1911年アメリカに移住する。
24年から29年までVictor Recording Orchestra のバンドマスターを務める。同バンドにはそれぞれの時期 Bix Beiderbecke, Hoagy Carmichael, Chauncey Morehouse, Jimmy Dorsey, Tommy Dorsey, Bill Rank, Eddie Lang, Frankie Trumbauer, Pee Wee Russell, Steve Brown, Joe Venuti,らが参加した。アレンジメントはRobert Ginzler
らが務めたがとりわけヘンダーソン楽団に在籍したRex Stewart, によるリズムパートのアレンジメントによって彼のバンドは白人のスウィングバンドとして確立された。

Detroit Athletic Clubの音楽監督を20年に渡り務め、またGraystone Ballroom をCharles Horvathと共同経営した。自身の興行会社Jean Goldkette's Orchestras and Attractionsを所有した。

27年Paul Whiteman,により自身のバンドメンバーを多く引き抜かれる。その後も McKinney's Cotton PickersCasa Loma Orchestra を率いるが30年代にはジャズの世界を去りブッキング・エージェントやクラシックのピアニストとして活動するようになる。また、破産により多額の借金を抱えてしまう。

39年にはAmerican Symphony Orchestra を結成しカーネギー・ホールでデビューを飾った。


Danny Overbea

1926年生。1994年没。ペンシルベニア州フィラデルフィア出身。

ギタリスト。シンガー。シカゴのR&Bシーンに現れ黎明期のロックンロールで活躍した。46年にプロとしてのキャリアをスタートした彼は50年に初めてのレコーディングに参加。52年にチェス・レコードと契約。‘Train Train Train’、‘40 Cups Of Coffee’などの楽曲を録音する。これらの楽曲は「ロックンロール」という呼称が一般化する以前のロックンロール録音として知られている。楽曲はそれぞれBuddy Morrow、Ella Mae Morseによって後にカバーされている。55年、ロックンロールがチャートに大きく登場する以前にBill Haley And His Cometもまた‘40 Cups Of Coffee’の録音を残した。

彼の音楽は当時の人気DJだったAlan Freedによって度々取り上げられる。派手なステージパフォーマンスやBilly Eckstine風のバラード歌唱など多才であった。59年の録音を最後に音楽業界からは76年に引退する。





2012年7月14日土曜日

Rivileers, the

ニューヨーク州ジャマイカクイーンズにて結成。54年から55年にかけて活動。

グループはEugene Pearson によって主導され、彼の友人や隣人だったメンバーが在籍した。俳優のLou Gossettは"A Thousand Eyes."の録音に参加している。

レコードショップにデモテープを置いて廻っていた彼らだったが、レコード配給会社のセールスマンだったSol Rabinowit の目にとまりデビューする。

彼らのプロデュースを担当することになったRabinowitはデモ曲を再度録音し直し、自身のレーベルからの発売を決心する。そして彼によってBaton Recordsが設置され、54年、第一弾シングルとしてRivileersの"A Thousand Stars"が発売された。曲はインディペンデント・レーベルによる配給にも関わらず各地でチャートインを果たした。

その後リリースされた二・三枚目のシングルは"A Thousand Stars"ほどのセールスを残すことはできず、翌55年、"For Sentimental Reasons"が発売され多少のセールスを残したがそれ以降ヒット曲を発表することができずグループは解散した。

"A Thousand Stars"はKathy Young & the Innocentsによって1960年カバーされ再度ヒットする。リーダーのPearsonはグループ解散後、62年から66年The Driftersへの参加で知られている。


2012年7月13日金曜日

Little Wonder Records

リトル・ワンダー・レコーズ。1914年から1923年にかけレコードを販売。

コロンビア傘下のレーベルとして発足し、作曲家アーヴィン・バーリンのビジネスパートナーだったヘンリー・ウォーターソンによって配給された。

レーベル面にはアーティスト名は記載されず、「バンド」、「テナー」、「カルテット」など簡単な内容の説明だけがされている。

レコード直径は5.5インチと小さく、収録時間は1分半から二分である。このため、コレクターの中には子供向けに発売されたものだと考える者も多かったがあくまでも一般のリスナー向けに販売された。

レコードはどれも10セントで販売され、当時としては破格だった価格設定はそれまでのレコードは高くて聴くことのできなかった人々の間にも普及し、 従来より広いリスナー層を獲得することに成功した。音質は当時の他のレコードと大きく変わらず、ダイム・ストア(大衆向け百貨店)やシアーズの通信販売を中心に販売された。

録音された音楽の演奏者や録音形態については諸説あるが、アル・ジョンソンやビリー・マレイなど当時のトップ・アーティストの参加も確認されている。

2012年7月12日木曜日

Merry Macs, The

ミネソタ州、ミネアポリスでプロムの出しものとして結成される。
ヒット曲に“Mairzy Doats,” “Praise the Lord and Pass the Ammunition” "Sentimental Journey."など。

3人のMcMichael兄弟を中心に結成され、バンドリーダーのEddie Dunstedterに見いだされてからはThe Mystery、The Personality Boysなどの名義で活動した。女性ボーカルを加え後にThe Merry Macsとなる。

1936年、女性ボーカルにHelen Carrollが加入した時期、ラジオ出演するようになる。37年から40年にはコメディアンFred Allenの番組に出演する。

バーバーショップスタイルを脱却しクローズ・ハーモニーで歌った彼らのスタイルはThe ModernairesSix Hits and a Miss などに影響を与えた。

1939年にはHelen Carrollに代わりMary Lou Cookが加入。
41年にはコメディアンデュオのAbbott and Costell の映画に出演している。

その後も活動を続け、64年にグループは解散した。

2012年7月11日水曜日

Leo Reisman

1897年生。1961年没。ボストン出身。

幼い頃からバイオリンを学び、1919年に自身のバンドを結成。20年代から30年代の活動期に80以上のヒットソングを残し、Jerome Kernには"The String Quartet of Dance Bands" と称された。

初のレコーディングはコロンビアに残した21年一月の"Love Bird"。
23年から29年まではコロンビア、29年から33年まではビクター、33年から37年まではブランズウィック、その後またビクターと契約する。29年から33年のビクター期には他のバンドによって録音の残されていないブロードウェイの歌曲をいくつか録音している。

作曲家やブロードウェイの出演者を歌手として取り上げることが多くHarold Arlen, Fred Astaire, Clifton Webb, Arthur Schwartzらと録音を残している。

チャート一位のヒットにコール・ポーターによる "Night and Day"(1933)、コン・コンラッドによる"The Continental" (1934)、アーヴィン・バーリンの"Cheek to Cheek" (1935)等。

ライズマンのバンドはあくまでダンスバンドであり、彼自身ジャズをあまり好んでいなかったが、エリントン楽団に在籍していたBubber Mileyの参加していた時期には「ホット」な演奏を残した。ピアニストでバンドリーダーのEddy Duchin も彼のバンドに在籍した。

  

2012年7月9日月曜日

Kenneth W. Griffin

1909年生。1956年没。ミズーリ州コロンビア出身。

サイレント映画の伴奏者としてキャリアをスタートさせる。40年代、イリノイ州オーロラのカフェ、Rivoli Cafeで演奏するようになり、WMRO によりラジオ放送も行われていたセッションは人気となる。

最大のヒットは48年作の"You Can't Be True, Dear"。当初はインストゥルメンタルの曲として発表されたが同年Jerry Wayneのボーカルを乗せ再発。両タイトル合わせて350万枚以上を売り上げた。54年から55年にはテレビ番組67 Melody Laneに出演。コロンビアからロンドに至るまで多くのレコード・レーベルに録音を残した。


2012年7月8日日曜日

Wendell Hall

1896年生。1969年没。カンザス州セントジョージ出身。

通称"the red-haired music maker"、"the pineapple picador"。
20年代から30年代を中心に活動した。23年にリリースした"It Ain't Gonna Rain No Mo'"は200万枚を超えるヒットとなった。彼の他の作曲に"Underneath the Mellow Moon"、"Carolina Rose"など。Carson Robison 及び Art Gillhamとも共作した。

22年にフォスター・ミュージックのソング・プラガー(音楽店に雇われ実際に演奏しシート・ミュージックの販促を行う職業)としてキャリアをスタートし、 全国津々浦々の音楽店、劇場、ラジオ放送などで演奏するようになる。ボードビルの舞台ではボーカルとシロフォンの演奏をした。この頃運びやすくて簡単だと思われたウクレレを手に取り演奏を始める。

1924年WEAF局のEveready Hour のホストに就く。 ラジオ時代の後にはラジオ・コマーシャルの作曲をした。ウクレレに限らず様々な種類の弦楽器を彼は演奏したが、彼によってデザイン・改良されたウクレレは現在でもコレクターズアイテムとして扱われている。


Sy Oliver

1910年生。1988年没。ミシガン州バトルクリーク出身。

母はピアノ教師、父はマルチ・インストゥルメンタリストの音楽一家に生まれる。父は当時マーチングバンド以外では使用されることの少なかったサックスの演奏で名を上げた人物だった。

17歳の時実家を離れZack Whyte and his Chocolate Beau Brummelsや後にAlphonse Trent の元で演奏するようになる。

1933年、Jimmie Luncefordのバンドに参加し数々のヒットのアレンジメントに携わる。39年にはTommy Dorseyのバンドに参加し、これは白人のバンドでアフロ・アメリカンが大きな役割を担う最初の一例となる(同年、Fletcher HendersonBenny Goodman
のバンドに参加している)。彼のアレンジした"On the Sunny Side of the Street"、彼自身の作曲による"Yes Indeed"などがヒットを記録した。

Dorseyのバンドを去った彼はフリーランスのアレンジャーとしてFrank Sinatraのアルバムへの参加、Decca Records のディレクターなどを務めた。
DeccaではElla Fitzgerald のために残したアレンジメントが有名。
彼自身の代表曲としてはT'ain't What You Do (It's the Way That You Do It)が広く知られている。


2012年7月6日金曜日

Peetie Wheatstraw

1902年生。1941年没。テネシー州リプリー出身。本名William Bunch。

アーカンソーの綿花畑で働きここを彼の生地とする説も多い。20年代後半にはミズーリ州セントルイスに移る。この頃既に卓越したギタリストであった彼はピアノもわずかながら演奏していた。30年代には広く人気を得るようになった。

1930年、大恐慌の最中レコーディングを残すようになったが実際の演奏活動はほぼセントルイスでのみ行われた。

'Peetie Wheatstraw, The Devil's Son-in-Law' を彼は名乗ったがこれはクロスロードでの悪魔との契約で知られているRobert Johnsonに着想を与えたのではないかと考えられている。小説家Ralph Ellisonは彼と個人的に親交があり、彼を人物モデルとして小説Invisible Man(邦訳:見えない人間)に用いたとする説もある。





2012年7月5日木曜日

Albert Sandler

1906年生。1948年没。ロンドン出身。

第二次世界大戦以降スポットがあたることが少ないが、戦間期の軽音楽界を先導する人物だった。

ロシア移民の両親の元に生まれる。幼少期より音楽に関心を抱いていたが、ロンドン東部の当時の経済状況から9歳の時兄に教わるようになるまで音楽教育を受けることはできなかった。後にバイオリンの教師を見つけ、12歳の時には映画館のオーケストラで演奏し給与を得るようになる。

Guildhall School of Musicの奨学金を獲得した彼は在学中レストランのオーケストラなどで演奏する。 Grand Hotelの音楽指揮者を担当するようになった彼は3年間同職を務め、ラジオ黎明期にはBBCでその演奏が中継されるようになる。20年代以降は知名度を上げレコードなどでも広く知られるようになる。

43年BBCからの依頼を受けPalm Court Orchestraを結成。45年には映画音楽界に参入した。



2012年7月4日水曜日

Dan W. Quinn

1859年生。1938年没。ニューヨークシティ出身。

レコード産業を通じて有名になった最初期の歌手。レコーディングキャリアは1892年から1918年。
 子供の頃、教会の聖歌隊で歌唱を磨いた彼はボードビルのステージに立つようになる。1892年ニューヨークで吹き込まれた最初の録音はすぐさま話題を集めるようになった。生涯に渡り34曲をチャートトップテンに送り込んだ。

当時は現在と異なり、特定のレコード会社に所属する慣習がなかったためBerliner, Columbia, Edison, Gramophone, Paramount, Victorなど多くのレコードカンパニーに録音を残しその数は2500タイトルに及ぶ。


Lost Sounds: Blacks And the Birth of the Recording Industry, 1890-1919 (Music in American Life (Mal))

2012年7月3日火曜日

Oliver Wallace

1887年生。1963年没。ロンドン出身。

音楽を学んだ後渡米。西海岸で劇場の指揮者、サイレント映画のオルガン伴奏者を務める。作曲家としても知られるようになった彼は30年代に入りハリウッド映画のための作曲を手掛けるようになる。

36年ディズニースタジオに参加した彼はすぐに頭角を現し短編アニメーションを中心に音楽を手掛けた。 短編への音楽提供は100本を超える。42年に発表した"Der Fuehrer's Face"が知られている。Horst Wesselによりパロディ化された同曲はSpike Jonesのバージョンで第二次大戦中ヒットを残した。
長編では 41年Dumbo でのオスカー受賞を皮切りにCinderella, Alice in Wonderland, Peter Pan, and Lady and the Tramp(邦題わんわん物語)などを手掛けた。

その後もディズニー作品のために作曲を行い150近い作品への楽曲提供を残した。




Jesse Crawford

1895年生。1962年没。

一歳の頃父を失い、カリフォルニア州ウッドランド周辺の孤児院に預けられる。独学で音楽を学んだ彼は9歳の頃には院内のバンドでコルネットを演奏するようになった。14歳の頃ダンスバンドでピアノを演奏するため孤児院を去り、サイレント期の10セント映画館で演奏するようになった。

映画館でのオルガン演奏を始めた彼はキャリアを積み、またOliver Wallaceに学ぶ。サンフランシスコやロサンゼルスで演奏するようになる。

26年から33年に掛けてはニューヨークのParamount Theaterで演奏した。
Autographにいくつかの録音を残した後、Victor Recordsに"Rose Marie", "Valencia" and "Russian Lullaby", "At Dawning" and "Roses Of Picardy"などのヒットを残す。

30年代、トーキーへの移行とともに仕事を失った彼はハモンドオルガンの演奏者に転向する。40年代にはJoseph Schillingerに音楽教育を受け、その後ハモンドオルガンの演奏指導なども行った。



2012年7月2日月曜日

Robert Maxwell

1921年生。ニューヨークシティ出身。
"Ebb Tide"及び"Shangri-La"の作曲で広く知られる。

家族に音楽を演奏する者はいなかったが10歳の頃ハープを始める。高校在学中にジュリアード音楽院の奨学金審査をパスする。17歳の頃National Symphony Orchestraの最年少メンバーになる。当時の指揮者にArturo ToscaniniSerge Koussevitskyなど。

後にUnited States Coast Guard にてRudy Valléの楽隊に所属する。Valléは彼にポピュラー音楽を演奏する機会を多く与えた。

米ラジオ局KFIのコンテストで準優勝した彼は名を知られるようになりラジオ、テレビ、映画などで演奏するようになる。CBSでFrank Sinatraの代役を務めることもあった。



Speckled Red

1892年生。1973年没。ルイジアナ州モンロー出身。

ブルース/ブギウギのピアニスト、シンガー。とりわけ"The Dirty Dozens"で知られる。

実弟は同じくピアニストのPiano Red。彼らのあだ名は兄弟共にアルビノであったことに由来する。バレルハウススタイルでの演奏を特徴とする。

父のジム・クロウ法の違反などもあり、幼い頃より転居を繰り返す。一家は音楽との関わりは薄かったがFishtail, Charlie Spand, James Hemingway William Ezellなどの影響を受け独学でピアノ演奏を身に付ける。また、地元の教会でオルガン演奏を学んだ。

10代の半ばにはジュークジョイントなどで演奏するようになり、20代半ばからはデトロイトで演奏する。このころ、Brunswickレーベルのスカウトの目に留り録音を残すようになる。

30年代後半からは音楽的な成果を上げることが難しくなったが50年代半ばに再評価を受け、Delmark Records初のブルースアーティストとして取り上げられた。



David Rose

1910年生。1990年没。ロンドン出身。

代表曲に"The Stripper", "Holiday for Strings", and "Calypso Melody"等。
テレビ番組への作曲も多く行い代表作にIt's a Great Life, The Tony Martin Show, Little House on the Prairie, Highway To Heaven, Bonanza, Highway Patrol。"Ray Llewellyn."という変名の元行われた。4度のエミー賞を受賞。

イリノイ州シカゴに育つ。16歳の時Ted Fio Ritoのバンドに参加しプロとしての活動を始める。NBC Radioのピアニストも務めた。

30年代初頭、Frank Trumbauer楽団の編曲や米放送局WGNのハウスバンドのリーダーを務め評価を得る。

依頼を受けハリウッドへ移った彼は Mutual Broadcasting Systemの音楽監督となる。 第二次世界大戦中にタレントのRed Skeltonと出会い彼のプログラムに参加以後20年以上に渡って、テレビ・ショーをともに作り上げた。

58年に"The Stripper"を作曲。同曲は映画Slap Shot, The Full Monty and Wallace & Gromit: The Curse of the Were-Rabbit 及びテレビシリーズLittle Britain, Scrubs.等で使用された。





Eddie South

1904年生。1962年没。ミズーリ州ルイジアナ出身。

幼少期にシカゴに移り住み、クラシック演奏の技術を積むが当時黒人演奏家に与えられていた演奏機会の状況から転向、ボードビルで演奏するようになり Freddie Keppard, Jimmy Wade, Charles Elgar, Erskine Tate らのバンドで演奏するようになる。23年、ニューヨークにてJimmy Wadeとの録音を残す。これが彼の初録音となる。

27年、自身のグループであるEddie South and his Alabamiansを結成する。28年から30年にかけてはピアニストのHenry Crowderと共にヨーロッパツアーを行った。

30年代に度々ヨーロッパへ演奏活動へ赴く中、ギタリストのDjango Reinhardt、バイオリニストのStéphane Grappelli らとのセッションを残す。

40年代にはピアニストのEarl Hines率いるビッグバンドなどで演奏した。





2012年6月28日木曜日

Charles P. Lowe

生没年、出身地不明。

名の知れたボードビルの演者であった彼は、「マーチ王」Sousaのバンドでソロイストを務めることもあった。Edison’s National Phonograph Companyに1896年、初めてシロフォン奏者として録音を残した。1901年までには21タイトルの録音を同社に残し、ポルカ、ギャロップ、ワルツ、流行歌などをレパートリーとした。

1902年以降には the United States Phonograph Company, the New Jersey Phonograph Company, the Bettini Phonograph Laboratory, the Reed and Dawson Companyなどにも録音を残している。

Harold Arlen

1905年生。1985年没。ニューヨーク州バファロー出身。

その生涯に500以上の楽曲を作曲し、とりわけ「オズの魔法使い」、"Over the Rainbow”の作曲で知られる。"Over the Rainbow”はRIAA及びNEAによって20世紀のベスト・ソングに選出された。

ユダヤ教のカントールの元に生まれる。若い頃からピアノの演奏、バンド演奏などを通じて地元でピアニスト、歌手として名を知られるようになる。
20年代前半にはニューヨークへと移り、ボードビルの伴奏者として演奏するようになる。
26年から34年にかけては The Buffalodians, Red Nichols, Joe Venuti, Leo ReismanEddie Duchinらのバンドでボーカリストとして録音を残している。

29年には作詞家Ted Koehlerとのコンビで"Get Happy"を発表しヒットを残す、以降30年代半ばまで、ブロードウェイなどに加え、Koehlerとはコットンクラブのショウのために作曲を行った。

30年代半ばには結婚、カリフォルニアを生活の拠点とし、ミュージカル映画への作曲に専心するようになった。この頃、作詞家 E.Y. "Yip" Harburgとのコンビを組み"Over the Rainbow”を作曲するに至った。

40年代には作詞家Johnny Mercer とコンビを組み"Blues in the Night", "That Old Black Magic," "Ac-Cent-Tchu-Ate the Positive," "Any Place I Hang My Hat Is Home", "Come Rain or Come Shine", "One for My Baby (and One More for the Road)"等多くヒットを残した。